あいも変わらず、学校の体罰問題が出てきている。今回は、三重県と岐阜県の学校で体罰があったのこと。もちろん、殴って怪我をさせることはよくないだろうが、体罰を完全否定することは反対である。市内の中学校での事件。もうずいぶん前のことだが・・・・。
生徒曰く 「先生。俺を殴ることはできないだろう。殴ったらクビだもんな。」と挑発。その時の先生「ああ、クビだ。クビになってもいい、お前を殴る。」といい、その生徒を殴ったという。(どのくらいの力かは不明)
これが教育だ。この先生は正しい指導をしている!「そうだね、殴るのはよくないね。」なんて言う先生は指導失格である。体罰は絶対ダメという先生はこんな時どうするのだろう?生徒を付けあがらせてしまうのだろうか?
生徒曰く 「先生。俺を殴ることはできないだろう。殴ったらクビだもんな。」と挑発。その時の先生「ああ、クビだ。クビになってもいい、お前を殴る。」といい、その生徒を殴ったという。(どのくらいの力かは不明)
これが教育だ。この先生は正しい指導をしている!「そうだね、殴るのはよくないね。」なんて言う先生は指導失格である。体罰は絶対ダメという先生はこんな時どうするのだろう?生徒を付けあがらせてしまうのだろうか?
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2月末といえ寒いです。そう思っていたところ、近くの田ではもう田起こしをやっていました。春の用意なのですね。3月になれば暖かくなると思うのですが、そうなればそうで花粉症の私は憂鬱です。
昨日から胸に痛みがある。どうも神経痛らしい。医者に行ったところ胃からの可能性もあるという。鎮痛剤を飲み、仕事をやっています。年を取ると、いろんなところが悪くなるものです。また無理もきかなくなるものです。気持はまだ若いのですが・・・・・・・。
1月18日から読み始めた、吉川英治の「新書太閤記」を先程読み終えました。ちょうど1カ月かかったものです。他の本と交互に読むつもりが、一気に読むことになる。やはり面白い。戦国時代は時代背景も理解しやすく、地元が舞台になることもあり没頭してしまいます。
吉川太閤記も司馬遼太郎太閤記も秀吉が関白になるところで終わる。
関白になった後の秀吉は、家康を上洛させるため、妹の朝日姫を佐治日向守(副田甚兵衛という説もある)と離縁させ、家康の後添いにする。また、諦めかけていたころに自分に子が出来、溺愛のあまり甥の秀次とその一族を殺したり、意味のない朝鮮出兵をしたりあまり魅力のない人物になってしまう。
やはり、吉川氏も司馬氏も青春時代を駆け回る木下藤吉郎に魅力を感じていいたのだろう。
吉川太閤記も司馬遼太郎太閤記も秀吉が関白になるところで終わる。
関白になった後の秀吉は、家康を上洛させるため、妹の朝日姫を佐治日向守(副田甚兵衛という説もある)と離縁させ、家康の後添いにする。また、諦めかけていたころに自分に子が出来、溺愛のあまり甥の秀次とその一族を殺したり、意味のない朝鮮出兵をしたりあまり魅力のない人物になってしまう。
やはり、吉川氏も司馬氏も青春時代を駆け回る木下藤吉郎に魅力を感じていいたのだろう。
信玄亡きあと四男の勝頼が武田家を相続するのだが、信玄は在命中にすでに伝説化するほどの武将だった。そのため何かにつけ父信玄と比較されるため、やりにくかたっと思われる。そのためやや意地になることもあり、信玄さえ落とせなかった高天神城を落とし、それ見たことかということもあった。ちなみにこの時勝頼は鎧を付けず、上半身裸で先陣に立ったという。
しかし、長篠の戦いのあと、無理して新府を築くなどもしている。しかし、これは戦略上仕方なしと思う。またこの時の重税に庶民の心が離れて行った結果にもなる。しかし、織田勢の進撃はすざましく、歴史上稀な軍団消滅となるのである。まずは木曽義昌、穴山梅雪、さては叔父の武田逍逌軒、一条上右衛門なども逃亡、または裏切りを行う。そして戦ったのは高遠城の仁科五郎信盛くらいである。その結果30000の軍勢が最後には四~五〇人となり天目山の田野で死す
勝頼は運が悪かった、そして生まれてきた国だけ守れば堅い武将だっただろう。そして強運と言える織田信長に負けた。(この信長も半年後本能寺で死ぬ)
人は、利害関係だけでなく、その時の気持、それを大衆心理というのだろうか、により行動を起こす。勝つよりも反する武将さえいなければ織田軍を大いに悩ましたのであろう。
私の知人にもこの大衆心理で、生徒が離れれいって自営の学習塾を廃業した人がいる。彼も塾の講師としてけっして、拙いものではなかった。ただ、大きな力だけに負けたのである。
しかし、長篠の戦いのあと、無理して新府を築くなどもしている。しかし、これは戦略上仕方なしと思う。またこの時の重税に庶民の心が離れて行った結果にもなる。しかし、織田勢の進撃はすざましく、歴史上稀な軍団消滅となるのである。まずは木曽義昌、穴山梅雪、さては叔父の武田逍逌軒、一条上右衛門なども逃亡、または裏切りを行う。そして戦ったのは高遠城の仁科五郎信盛くらいである。その結果30000の軍勢が最後には四~五〇人となり天目山の田野で死す
勝頼は運が悪かった、そして生まれてきた国だけ守れば堅い武将だっただろう。そして強運と言える織田信長に負けた。(この信長も半年後本能寺で死ぬ)
人は、利害関係だけでなく、その時の気持、それを大衆心理というのだろうか、により行動を起こす。勝つよりも反する武将さえいなければ織田軍を大いに悩ましたのであろう。
私の知人にもこの大衆心理で、生徒が離れれいって自営の学習塾を廃業した人がいる。彼も塾の講師としてけっして、拙いものではなかった。ただ、大きな力だけに負けたのである。
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