今日も天気がよく暖かくて風がある。健康な人なら歓迎すべき日であるが、花粉症の人には地獄のような天気である。私が花粉症またはアレルギー性鼻炎といわれるものになったのは40年以上も前のことである。当時は世間が認知していなく、その理解が得られず苦労したものである。
当時の花粉症の人は、そのほとんどが精神的なものとされ患者は迫害を受けていた。曰く、花粉症は、やる気がない我儘な人間がなる。曰く、甘いものが好きな我儘。曰く、酒、たばこを飲むもの、曰く、勉強嫌いなどなど。また、外来のものを食べるからなるのだとか・・・。また道場で厳しく精神修行をすれば治るとか・・・・。とにかく患者の人間性を否定するものばかりであった。
当時市内にはS医院があり私はそこに通っていた。その先生から「アレルギー性鼻炎だ。」とその当時から、その先生は言っていた。いつも混むのでたまたま他の医院へ行って、症状を訴えると、その先生曰く「そんなものは聞いたことがない。」と言われた藪医者もいた。
また部屋が汚いからだと言われていた。窓を開けよ!布団を干せ!と言われそれをやったらその晩は地獄。親も理解してくれなかったものである。
今でこそ大分楽になったが当時は苦しさの余り、自殺まで考えたこともあった。医者からも「お前の様なひどいのは見たこともない。」と言われるしまつ。
治るのなら、どれだけお金を出してもよいとまで考えていた。一年のうち2~3か月がまともに仕事が出来ず、夜も寝られないものだから。そして薬代だけでも少なくとも年数万は使っていた。
ある日、漢方薬局に行った。そこで薬の説明を受けると、薬代が60万円くらい掛かるという。それで治るとも言う。私は言った「200万、いや300万出す。治れば!だから後払いで治るまで飲まさせてくれ!」先方曰く「やはり治りませんよ。」と。
なおる方法はないのである。ただひたすら外出も控え我慢。これしかない!
皆さん花粉症は市民権を得ました。すぎ去るまで頑張りましょう!
当時の花粉症の人は、そのほとんどが精神的なものとされ患者は迫害を受けていた。曰く、花粉症は、やる気がない我儘な人間がなる。曰く、甘いものが好きな我儘。曰く、酒、たばこを飲むもの、曰く、勉強嫌いなどなど。また、外来のものを食べるからなるのだとか・・・。また道場で厳しく精神修行をすれば治るとか・・・・。とにかく患者の人間性を否定するものばかりであった。
当時市内にはS医院があり私はそこに通っていた。その先生から「アレルギー性鼻炎だ。」とその当時から、その先生は言っていた。いつも混むのでたまたま他の医院へ行って、症状を訴えると、その先生曰く「そんなものは聞いたことがない。」と言われた藪医者もいた。
また部屋が汚いからだと言われていた。窓を開けよ!布団を干せ!と言われそれをやったらその晩は地獄。親も理解してくれなかったものである。
今でこそ大分楽になったが当時は苦しさの余り、自殺まで考えたこともあった。医者からも「お前の様なひどいのは見たこともない。」と言われるしまつ。
治るのなら、どれだけお金を出してもよいとまで考えていた。一年のうち2~3か月がまともに仕事が出来ず、夜も寝られないものだから。そして薬代だけでも少なくとも年数万は使っていた。
ある日、漢方薬局に行った。そこで薬の説明を受けると、薬代が60万円くらい掛かるという。それで治るとも言う。私は言った「200万、いや300万出す。治れば!だから後払いで治るまで飲まさせてくれ!」先方曰く「やはり治りませんよ。」と。
なおる方法はないのである。ただひたすら外出も控え我慢。これしかない!
皆さん花粉症は市民権を得ました。すぎ去るまで頑張りましょう!
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市が現在プラスチィクゴミの分別をやめることを検討しているという。現在市の条例では、プラスチィクのゴミ、トレイ、食品包装紙などは綺麗に洗い、専用の袋に入れ出すことにしている。しかし、そのほとんどは一般のゴミと一緒に燃やされているのが現実である。つまり、焼却するものを、洗剤で洗い、市が電動ポンプでくみ上げた水で濯ぐのである。洗剤を流す汚染、水をくみ上げるエネルギーを使っているのである。
我々は、環境という名のもとで知らず知らずに反対のことをしている場合がある。
我々は、環境という名のもとで知らず知らずに反対のことをしている場合がある。
今日は、市内の中学校の卒業式である。今現在行われている時刻である。
卒業式といえば、小・中・高と私はあまり感傷的にはならなかった。しかし、大学の卒業式はそうではなかった。私の通った大学は横浜市内の丘の上にある。電車を降りしばらく歩くのであるが、丘に登りついたときにマリンタワーが見える。毎日くらい見ている景色である。卒業式の当日、その丘の上でマリンタワーを見た時、なぜか急に涙がこぼれそうになった。
毎日見ているこの景色、明日から見ることが出来ないと思うと、なぜかすべてが終わったと感じたものである。
式が終わり、研究室で談話、飲食、その後帰るのであるが、やはり丘の上でもう一度マリンタワーを見た。目に焼き付けるように。そして二度と振り返らないと心に決め、涙を抑え帰ったのだった。青春の第1章が終わった日である。
卒業式といえば、小・中・高と私はあまり感傷的にはならなかった。しかし、大学の卒業式はそうではなかった。私の通った大学は横浜市内の丘の上にある。電車を降りしばらく歩くのであるが、丘に登りついたときにマリンタワーが見える。毎日くらい見ている景色である。卒業式の当日、その丘の上でマリンタワーを見た時、なぜか急に涙がこぼれそうになった。
毎日見ているこの景色、明日から見ることが出来ないと思うと、なぜかすべてが終わったと感じたものである。
式が終わり、研究室で談話、飲食、その後帰るのであるが、やはり丘の上でもう一度マリンタワーを見た。目に焼き付けるように。そして二度と振り返らないと心に決め、涙を抑え帰ったのだった。青春の第1章が終わった日である。
一昨日・昨日とあまりよろしくない教員について述べました。ついでにもう一つ、高校時代にTという先生がいた。彼も多くの生徒に嫌われ、先生仲間でも嫌われていたようだ。(部活顧問の先生が酒に酔って話していた)彼は授業をやらない、視聴覚教室でビデオと自分の講義を録音したテープレコーダで行う。その間となりの事務室でコーヒーを飲んでいたようだ。また、何かに私たち生徒をバカにし、自分の出身高校の名前を出す嫌味な人だった。明らかに怠慢。
私は授業をすることが楽しい、ビデオなんぞで手を抜きたくない!世の中の衛星予備校はなぜあんなに高額で生徒が集まるのだろうか?
この項これで終わりにします。しかし、いい先生もいっぱいいました。悪さをした時殴られもしたが決して当時も今も恨んでいません。そんな先生の方が魅力があるようです。
私は授業をすることが楽しい、ビデオなんぞで手を抜きたくない!世の中の衛星予備校はなぜあんなに高額で生徒が集まるのだろうか?
この項これで終わりにします。しかし、いい先生もいっぱいいました。悪さをした時殴られもしたが決して当時も今も恨んでいません。そんな先生の方が魅力があるようです。
昨日程過激でないですが、もうひとつの話。
小・中学校を通し、私は音楽が嫌いだった。学期は引けないし、クラッシック音楽なぞまったく興味も持てない。この曲をきいたらこの様に感じなさいと言われても、感ずることも出来ず、よわった子でした。ちなみに学生時代にカッポレはドイツの葬式の曲だと知ったとき、いろんな感受性がありまんざら私の感受性もおかしくはないと判断したのですが・・・・・・・。
私の担当だった音楽の先生はすべて女の先生でした。そして、その先生に共通して言えることは「エコひいき」をすることでした。また、ときにはヒステリーもあった。今の子達にそれを言うと確かに音楽の先生はエコひいきが多いという。そのヒイキはやはり優秀な子、またはお金持ちの子だったように思う。
なぜだろうか・・・・・?
私が小・中学生時代は先生になられた方は昭和30年代から40年代の初め、中には戦中・戦後直後に大学を卒業された方になる。今でこそ大学は大勢の方が行かれるが、当時大学に行かれる方は例外なく、優秀そしてお金持ちなのである。そのため上から目線で貧乏人を毛嫌いしていたようである。(お金持ち特有の優越感)そのため私の様な劣等生、オヤジが職人という家の子はかなり差別を受けていた。
こんなことがあった。音楽室にはピアノがある。私たちのような劣等生は少し触っただけで「ダメです。指紋がつきます。」と叱られる。もちろん興味本位に触れるのであるが。ところがいいとこの子にはみんなの前でピアノを弾かせるのである。そして言う。「○○フレーズをもう半音あげるともっと良かったです。家で練習してください。」 アホか!当時のピアノは今でいうとベンツのような高級なもので一般家庭では考えることも出来ない高価なものだったのである。(今もそうだが)
教育とは皆等しい権利、そして好奇心を持たせることではないか。今はこんな先生はいないと思うが、昔はいたのです。
小・中学校を通し、私は音楽が嫌いだった。学期は引けないし、クラッシック音楽なぞまったく興味も持てない。この曲をきいたらこの様に感じなさいと言われても、感ずることも出来ず、よわった子でした。ちなみに学生時代にカッポレはドイツの葬式の曲だと知ったとき、いろんな感受性がありまんざら私の感受性もおかしくはないと判断したのですが・・・・・・・。
私の担当だった音楽の先生はすべて女の先生でした。そして、その先生に共通して言えることは「エコひいき」をすることでした。また、ときにはヒステリーもあった。今の子達にそれを言うと確かに音楽の先生はエコひいきが多いという。そのヒイキはやはり優秀な子、またはお金持ちの子だったように思う。
なぜだろうか・・・・・?
私が小・中学生時代は先生になられた方は昭和30年代から40年代の初め、中には戦中・戦後直後に大学を卒業された方になる。今でこそ大学は大勢の方が行かれるが、当時大学に行かれる方は例外なく、優秀そしてお金持ちなのである。そのため上から目線で貧乏人を毛嫌いしていたようである。(お金持ち特有の優越感)そのため私の様な劣等生、オヤジが職人という家の子はかなり差別を受けていた。
こんなことがあった。音楽室にはピアノがある。私たちのような劣等生は少し触っただけで「ダメです。指紋がつきます。」と叱られる。もちろん興味本位に触れるのであるが。ところがいいとこの子にはみんなの前でピアノを弾かせるのである。そして言う。「○○フレーズをもう半音あげるともっと良かったです。家で練習してください。」 アホか!当時のピアノは今でいうとベンツのような高級なもので一般家庭では考えることも出来ない高価なものだったのである。(今もそうだが)
教育とは皆等しい権利、そして好奇心を持たせることではないか。今はこんな先生はいないと思うが、昔はいたのです。
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