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 私は、自分の意思で映画館にいくことはほとんどない。十年に一度くらいである。高校を卒業した時には、時々いくことがあったが、ほとんどが後悔、お金と時間の無駄と感じることが多かった。特に話題作ほど、その期待の裏切りは大きいもので、見たいなと思っても。そのうちテレビでやるだろうとしか思わない。それでも市内に巨大映画館が出来たということで、そこに三度ほど行った。ちなみに自分の意思ではなく、我が配偶者のお付き合い。一つは『眉山』、これは自分の子が徳島の眉山の麓に住み、私も徳島大学の検体の会になぜか、配偶者の手違いで入会することとなったため他人事とは思わず見ることになる。二度目は『私は貝になりたい』これも配偶者のお付き合い。まあ、どちらも及第点でした。そして三度目は自分の意思。『チェ28歳の革命』と『チェ39歳の別れの手紙』である。今回、配偶者はチェ・ゲバラには関心がなく一人の鑑賞。二作で4時間を超える映画だが、史実をもとに作ってあるためゲバラに関心がない、または知識がない人にとってはあまりいい映画ではなかったであろう。ゲバラの基礎知識を持って見るべき映画であろう。例えば、ゲバラが国連でアメリカの政治家から「お久しぶりです。」と言われる。ゲバラは言う「ピックス湾以来だね。」との台詞。1961年4月のピックス湾事件を知らなければ解らない台詞だろう。また、登場人物の多さと時間の流れの速さなどはゲバラ入門者には理解しがたい映画である。(入門者にはオマー・シャリフの『ゲバラ』を勧める。)
 さて、このゲバラ、私が彼を知ったのは高校文芸部の部室、高校1年のときである。部の先輩が所持していた、リカルド・ロホ著『我が友ゲバラ』を見たときからである。不覚にも当時私は彼のことを知らなかった。先輩曰く「何だ?知らないのかゲバラを。」「すみません、借りていいですか?」これが最初の出会い。その晩それを読み、それから今現在に至るまで片時も忘れなかった人物である。当時、今でもそうだが人物を知らないということは恥ずべきことのように思っていた。それから時々思いついたようにゲバラの書籍を探すのだが、これがなかなか見つからない。比較的簡単に見つかるのは「ゲバラ日記」である。「ゲバラのボリビア日記」とも言われるもので、これを何度読み返したものだろうか。学生時代、私は医者もあきれるほどの極度の花粉症で夜寝ることも出来ない状態であった。ゲバラも同じ呼吸器の喘息を患っており、その発作をジャングルの中で耐えている。もちろん彼と私には程度の違いがあるが・・・・。花粉症で苦しんでいるときこれを読み、どれだけ励まされたことだろうか。一読を勧めます。
 昨年(注008年)ゲバラ死去40年ということで,改めて「ゲバラ日記」を読もうとしたが、私の部屋の中のどこにあるのか解らず、改めて新訳を読んだところ映画が出来るということを知った。ちなみにこれは監督曰く意図的でないという。ゲバラ死去後、「ゲバラ日記」の信憑性が疑われたが、ボリビアゲリラ隊生き残りのビィエガス・タマヨ・ハリー(通称ポンボ、現存)の「ポンボの日記」と内容が同一のため、本物とみなされている。ちなにみこの「ポンボの日記」、たぶん翻訳されていると思うがまだ目にしたことがない。もし何処かで見かけた方が見えれば知らせてほしい。
 今、自分でも呆れるくらいの取りとめのない文章をかいている。思いついたままパソコンを打っているので了承されたい。ここでチェの略歴を
1928年6月14日  アルゼンチンに生まれる。本名エルネスト・ラファレル・ゲバラ・デル・セルナ。チェはアルゼン  
         チンの言葉で、「ねえ、君」という意味。ゲバラの口癖。友人アントニオ・ロペス、愛称ニコが付けた。       
         (1954年)
1952年1月~8月  友人と二人でおんぼろバイクで南米旅行をする。裕福な家庭に生まれた。ブエノスアイレス
         大の医学生だった彼は最貧国の現状と一部の富める者の富みの独占を目の当たりにし、社会主義
         を考えるようになる。
 これは「モーターサイクル・ダイアリーズ」という映画にもなった。書籍もあるが、私はあまり興味が湧かない。
1955年7月      カストロ(現キューバ主席)と出会い、ゲリラ戦の訓練を受ける。
1956年11月25日  カストロ、チェら82人がグランマ号に乗り込みキューバに出発。このグランマ号(おばあちゃ  
         んの意味)なんと定員8人。
      12月2日  キューバ到着。同5日 バチスタ軍の襲撃により、チリジリになる。
         21日  チェ、カストロと再会。生存者17名。チェと名付けたニコも戦死。
1959年1月1日   チェを司令官とした部隊、ラス・ビジャス州サンタクララ市を占領。
        2日   カストロ勝利宣言。キューバ革命成立。
     7月      チェ、来日。自費で広島に行き、アメリカが落とした原爆の状況を見る。
 チェは広島にかなりの印象を残したようだ「こんなにされてもアメリカの言いなりになるのか?」との言葉は有名。後の演説にもしばしば出たようである。そのためかキューバの歴史の教科書には広島に関してのことが3ページほどあるという。日本は数行。
1956年11月26日  キューバ国立銀行の総裁になる。紙幣にChenoサインをつけた。
1961年4月15日   前述のピックス湾事件。アメリカが亡命キューバ人を中心にキューバ侵攻。
1965年4月1日    カストロに別れの手紙を渡し、行方不明になる。実はコンゴに行っていた。
1966年11月4日   チェ、変装してボリビア入国。
1967年4月16日   三大陸人民連帯機構に向けたチェのメッセージ発表。サルトルも共鳴。
1967年9月26日   チェの率いるゲリラ軍、ボリビア政府に包囲される。
     10月8日   生き残った17人のゲリラは追いこまれ、チェは負傷、政府軍に捕まる。
     10月9日   ボリビア政府の指示により、処刑。享年39歳。
1997年7月1日   チェの遺骨が死後30年を経てキューバに帰国。ボリビア政府が神格化されるのを恐れ30年  
        間隠し通した。死んだイゲラ村には今、記念碑がある。
           *          *          *          *         *
 チェ・ゲバラで工業省大臣、国立銀行総裁などを歴任し、政治家として余生を過ごしていたら、私は彼をこんなにも慕わない。いつも自分の出来ること、自分しか出来ないことを目指し、あえて困難な道に突き進む彼の姿は本当にかっこいい。若者のTシャツ、ポスターにも登場するアイコンになっている。私の卒業した大学の喫茶部にも壁に彼の肖像画がかかっていた。ちなみに愛知万博のときキューバ館でゲバラのマグカップを購入、現在も愛用している。
 チェ・ゲバラをこの紙面で語るには少なすぎる。またゲバラは残酷という人もいる。確かに彼は多くの人を革命という名の下で殺した。その数700~800人と言われる。最もかれ一人が殺したわけではないが。しかし、カストロや家族に宛てた別れの手紙には深い愛情が感じられる。ただのジェノサイドの実行者ではなかったことが感じられる。そこに矛盾点はない。処刑されるとき躊躇している兵士に向かって彼は言う。「さあ、撃ちなさい。あなたはこれから一人の人間を殺すのだ。」と言ったという。
 ゲバラの取った行動は賛否両論があり、すべて正しいとは言わない。しかし、決して曲げない信念、困っている弱い人達を見逃すことのできない心情は今を生きる傍観者は見習うべきである。
 昨今、百年に一度の大不況だと言われる。数%の給料カットの重役等に対し、末端の現場作業員をリストラするような社会、もしゲバラが生きていたら、それをどう思うだろうか?
 青春とは不合理なことを恐れず、立ち向かっていくことではないだろうか?



                              2009年3月発行  塾報「カルチェ・ラタン」より
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 昨日は、午前中は暖かいいい天気、我が愛車のタイヤをスタットレスから普通タイヤに替えました。しかし、午後から急に寒くなり、天気予報では明日は雪50%という。まさかと思っていたら、朝は雪。車の上に積もっていました。道はないです、凍結もなし。車の運転は大丈夫。
 3月、半ばでも雪は降るのですね。
 短期間ですが数学と化学を教えていた子から大学合格の連絡がありました。ある私立の薬学部。彼の父親もその大学のOB。「お父さん、喜んだろう?」と聞けば「あんまり喜んでいない。」との返事。せっかく合格したのに何だろうと疑問。しかし、その晩ふと思った。薬学部は6年間である。しかも私立、初年度納入金が250万位、次年度から200万位、また親元から離れて暮らすため月々の仕送り。総額2000万近くなる。合格は嬉しいけれど・・・である。
 もちろん父親があまり喜ばなかったのはそれが原因ではないかもしれないが、それにしても・・・である。
我が愚息は国立の歯学部卒。我が家の経済状況では絶対私立は不可能。医・歯系の私立は6年間で1億円を超えるという。
 我が家はもう終わったからいいが、これなんとかならないでしょうかね?
 本日は、市内の中学校の卒業式。
 卒業式と言えば、私は大学の卒業式を思い出す。小・中・高は進路がまだ決まっていない不安さと、寒さ、トイレを我慢していた位であまり思いはない。特に小学校から高校まで市内の学校だったので、別れという感覚は少なかった。しかし大学は多いに感傷的になった。私の通っていた大学は横浜市内の丘の上にある、通学途中その丘を登るとマリンタワーが見えた。いつも見ている風景なのだが、この日ばかりは、もう見納め、これが最後と思うと途端に目頭が熱くなった。青春の別れの様な気がしたものである。
 卒業後、しばらく東京に勤めていたため、一度だけ行ったことがあり、また近くを通ったことも一度だけである。卒業以来一度も会うことなく年賀状だけの付き合いになってしまった友人もいる。本当の別れがあった。
 我が家の庭にある、毎日見ている灯篭だが、本日その灯篭を見て、50年近い昔のことを思いだした。まったく記憶の外にある内容だが、何十年ぶりに思い出すこともあるのですね。
 その内容ですが、実家の近くには新明神社がある、もちろん今もあり正月にはまず最初にお参りすることにしている。私たちはそこが遊び場だった。当時小学低学年。夕暮れになりうす暗くなると、おばあさんが一人やってくる。そして灯篭にろうそくを立て、火をつけ本殿にお参りするのである。そして私たちに「もう遅いから帰りなさいよ」と言い帰って行かれる。私たちはそのおばあさんに会いたくて、うす暗くなるまで帰らなかったものである。そしてそのおばあさんが声をかけてくれれば素直に家に帰ったものである。子供心になんとなくホッとしていた。そして来ない日は後ろ髪を引かれる思いで夕方帰った。
 神社は宗教の場であるが私たち子供は最高の遊び場だった。戦争ごっこ、チャンバラ、木のぼり、今は埋め立て公園になってしまっている沼地での魚とり。懐かしい、許されるならもう一度遊んでみたい場所である。また狛犬の上に乗り得意げにいることも偉くなったようで最高だった。ちなみに自分に子供が出来たときにその狛犬の上に乗せることが夢だった。一度だけ叱られなしないかとおどおどして乗せたのだが、わが息子は覚えているだろうか?
 孫が出来たら灯篭に火をつけ神社で遊びたいとも思っている。
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