人は運のいい人と悪い人がいる。最初に何処に生まれてきたかがすでに運である。親子数代働かなくてもいいくらいのお金持ちに生まれるのか、赤貧洗うがごとくの家にうまれるのか、はたまた雪国に生まれるのか、暑い地方か、都会か田舎かである。生まれてきたところで人生のほぼ半分が決まると言っても過言ではない。たとえば熱帯地方に生まれた人は、よほどの事がない限りスキー・スケートの選手になり世間で名をあげることもないだろう。
そして育った家の環境にもよる。物心がつき自分の環境に気づき努力をしたところですでに遅しということもある。
また、さほど努力もしていないのに推薦でそこそこの学校に入り、就職もそこそこということもある。反面かなり努力をしているのであるが肝心の試験に体調をくずし、よくない結果を出すこともある。本人がかなりの努力をしているのに誰も認めてくれないこともある。所謂「縁の下の力持ち」が評価されないことである。しかし、私はそういう人は好きである。これは自分がそうだからかもしれない。
必死に働いているのに平均より低い所得。他に評価されない待遇。ほとんどの人はこれである。要領よく生きている人は好きになれない。これは一種の彼我み根性だろうか?
そして育った家の環境にもよる。物心がつき自分の環境に気づき努力をしたところですでに遅しということもある。
また、さほど努力もしていないのに推薦でそこそこの学校に入り、就職もそこそこということもある。反面かなり努力をしているのであるが肝心の試験に体調をくずし、よくない結果を出すこともある。本人がかなりの努力をしているのに誰も認めてくれないこともある。所謂「縁の下の力持ち」が評価されないことである。しかし、私はそういう人は好きである。これは自分がそうだからかもしれない。
必死に働いているのに平均より低い所得。他に評価されない待遇。ほとんどの人はこれである。要領よく生きている人は好きになれない。これは一種の彼我み根性だろうか?
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昭和の中ごろ、市内に誰もが知るS子さんという女性がいた。この人の職業は糞尿の回収、すなわち当時「肥汲み」と言われる職業である。当時は水洗便所もなくほとんどの家庭が昔ながらの汲みとり式の便所であり、バキュームカーもあるにはあったが市全体をカバーすることも困難な時代であった。また車が入ることも出来ない狭い路地裏にも困難なときもあった。そのため人力が必要だったのである。
このS子さんの名は市長より有名で、市内にでは知らない人はいないくらいだった。ただしそのほとんどは名字を知らなかった。ただS子さんと呼ばれていたのである。仕事は大八車に桶をいくつか乗せ、ひしゃくで汲みだした糞尿を入れ家から家へと移動するのである。S子さんは前で大八車を引っ張り、後ろは無口な男性が押しているのである。ただただ黙って大八車を押すのである。S子さんとの関係は解らないが、どうも父親の様であった。
道を行けば、中学生くらいはからかうこともあっただろう。事実「昨日S子を見た。」とか「お前はS子見たいだ。」とふざけあっていた。しかしこのS子さんからかわれても怒ったということを聞いたことがない。いつも一所懸命に車を引き、お客さんには笑顔で対応してした様である。各家庭から「S子さん、うち頼むわ。」といえば「あいよ。」と元気のいい返事。「Sちゃん!次はうちね。」と声をかければ「あいよ。ここ終わったら行くよ。」という会話。職業柄、人からは下げずまれていたのだが、市民には愛されていたようである。
私が最後に見たのは、小学生の終わりか、中学生の初め頃だったと思うが、もう水洗便所が普及し始めた時である。自動車も多くなった市道で汗を拭きながら、いつものトレードマークの帽子をかぶり大八車を引いていた。その時の印象は、ずいぶん歳を取ったなというものであり、なぜか非想観を感じた。
彼女は知能的に劣る人だったと人は言っていたが、自分のやるべき仕事をしっかり理解していた人だった。存命ならもうかなりの高齢だと思うが、市民栄誉賞なんてものがあれば彼女ほど受章に適した人はいないと思う。
このS子さんの名は市長より有名で、市内にでは知らない人はいないくらいだった。ただしそのほとんどは名字を知らなかった。ただS子さんと呼ばれていたのである。仕事は大八車に桶をいくつか乗せ、ひしゃくで汲みだした糞尿を入れ家から家へと移動するのである。S子さんは前で大八車を引っ張り、後ろは無口な男性が押しているのである。ただただ黙って大八車を押すのである。S子さんとの関係は解らないが、どうも父親の様であった。
道を行けば、中学生くらいはからかうこともあっただろう。事実「昨日S子を見た。」とか「お前はS子見たいだ。」とふざけあっていた。しかしこのS子さんからかわれても怒ったということを聞いたことがない。いつも一所懸命に車を引き、お客さんには笑顔で対応してした様である。各家庭から「S子さん、うち頼むわ。」といえば「あいよ。」と元気のいい返事。「Sちゃん!次はうちね。」と声をかければ「あいよ。ここ終わったら行くよ。」という会話。職業柄、人からは下げずまれていたのだが、市民には愛されていたようである。
私が最後に見たのは、小学生の終わりか、中学生の初め頃だったと思うが、もう水洗便所が普及し始めた時である。自動車も多くなった市道で汗を拭きながら、いつものトレードマークの帽子をかぶり大八車を引いていた。その時の印象は、ずいぶん歳を取ったなというものであり、なぜか非想観を感じた。
彼女は知能的に劣る人だったと人は言っていたが、自分のやるべき仕事をしっかり理解していた人だった。存命ならもうかなりの高齢だと思うが、市民栄誉賞なんてものがあれば彼女ほど受章に適した人はいないと思う。
しかし、体調不良で全コンサートが中止。なんのために来日したのか?
こんな田舎ゆえコンサートを見る機会もないが、一度は見てみたいものです。
こんな田舎ゆえコンサートを見る機会もないが、一度は見てみたいものです。
国会議員の野田聖子氏は祖父が国会議員、教養もあり、美人でもあり家柄もよい家庭で育った。優秀な彼女は上智大学を卒業後、ホテルに就職した。なんとかプリンスホテルという都内の一流のホテルである。
そして、その彼女が入社に最初に行った仕事が「便所掃除」だったという。その時の彼女の気持ちまでは知られていないが、それをやらせたホテル側は偉いと思う。客商売である以上、清潔さは最重要である。また誰かはやらなくてはならない仕事でもある。嫌ってそれをやらなければどうなるかは想像に難くない。
嫌なことでもやらなければならないことは、誰かが率先してでもやるべきことである。そしてそれを率先して行う人こそが人格者とも言えるのではないか。
追伸
野田聖子氏がまだ国会議員になりたての若いころ、岐阜市内の蕎麦屋さんで私の真ん前に座っていたことがあった。やはり何処となくオーラを発する人であった。
そして、その彼女が入社に最初に行った仕事が「便所掃除」だったという。その時の彼女の気持ちまでは知られていないが、それをやらせたホテル側は偉いと思う。客商売である以上、清潔さは最重要である。また誰かはやらなくてはならない仕事でもある。嫌ってそれをやらなければどうなるかは想像に難くない。
嫌なことでもやらなければならないことは、誰かが率先してでもやるべきことである。そしてそれを率先して行う人こそが人格者とも言えるのではないか。
追伸
野田聖子氏がまだ国会議員になりたての若いころ、岐阜市内の蕎麦屋さんで私の真ん前に座っていたことがあった。やはり何処となくオーラを発する人であった。
先週のゴールデンウィーク最終日のこと。福井県内の国道8号線を南下中、天気はよく交通量も多くなく絶好のドライブ日和。先を行くのは軽トラック。若き頃、会社の主張中ここでスピード違反で捕まったこともあるので慎重に運転。チンタラの軽トラックの後ろを制限速度内で行く。登坂車線になり、合いも変わらず軽トラックの後ろ。そのときこげ茶色のセダンが私の後ろから豪快に追い抜いてゆく。
登坂車線が終わり、坂を下りきったところで、このセダンスピード違反で捕まる。他人事といえなぜか怖かった。追い抜かなくてゆっくりドライブ、よかったと思う次第である。
登坂車線が終わり、坂を下りきったところで、このセダンスピード違反で捕まる。他人事といえなぜか怖かった。追い抜かなくてゆっくりドライブ、よかったと思う次第である。
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