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 1582年(天生10年)この日、6月13日、京都山崎で羽柴秀吉と明智光秀が戦う。明智軍敗れ、光秀は自城坂本に向かう途中栗栖で農民に襲撃され横死。
 本能寺の時にも書いたが、私は戦国武将では明智光秀が一番好きである。最も現代人に近く、マイホーム主義でありながら、仕事も他よりこなす、所謂理想の人間である。若いころ諸国を流浪し人を見、地を見、苦労することで人を敬う人間になったようだ。気まじめで、部下を罵倒することもなく、部下思いだったという。それが信長とは正反対である。また、秀吉のように、要領だけで生きていくことが出来ない人でもある。有職故実にも長け、戦も旨く、鉄砲もすぐれていたという。それが、信長に気に入られ出世する。
 しかし、残念ながら本能寺の後、味方に付くものは少なく、戦国武将特有の利害関係だけで動くということが理解できなかったにちがいない。ちなみに味方したのは、筒井順慶の部下井戸良弘(彼は積極的だったよう)若狭武田元明と近江京極田高次くらいである。順慶は光秀にかなり世話になりながら、羽柴軍と二股をかけ、順慶の洞ヶ峠との言葉さえ生まれた。ちなみにこの順慶、親が早く死んだため、それを秘匿するため顔がよく似た木阿弥という僧を影武者とした。そして順慶が成人したら、木阿弥さんはお払い箱。これが「もとの木阿弥」という言葉を生んだ。 
 この戦後元明は自がい。京極高次は妹の竜子が美人であったため秀吉の妾になることで許され大津城を与えられている。
 また、これも進退を迷っていた中川清秀(瀬兵衛)は秀吉の行動があまりに早いため、明智に見切りをつけている。この清秀、山崎の戦い後、秀吉から「瀬兵衛、骨折り!」との上から目線で声をかけられ、「猿め、はや天下を取った気でおるわ。」と聞こえるように言ったという。その時秀吉は聞こえないふりをした。その1年後、清秀は賤ヶ岳の戦いで大岩山砦で死ぬのであるが、私の推測では内心「明智に味方すればよかった。」と思ったのではないだろうか?明智光秀ならそんな横柄な態度はとらなかったと思う。また清秀が参加すれば勝算もあっただろう。
 光秀と似たタイプに石田三成があげられるが、三成は戦べた、行政はすぐれた官僚だったが、優秀なあまり、他を見降ろし、横柄な態度が多かった。それが敵を作る原因となった。しかし、光秀の敵はほとんどいない。それだけ人望もありすぐれた人物だったのである。
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