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 海音寺潮五郎の「加藤清正」を再読した。加藤清正は武将の中でも人気があり、熊本人の誇りとも言える人物である。また、名古屋城の追手門には彼の銅像さえあり、出身地名古屋でも人気が高い。戦国武将の中でも最も戦国武将らしさがある武将である。
 私は、若い時からなぜ清正が人気があるのかと疑問に思い清正を好きになろうとも思ったものである。しかし、今再読すれば彼の生き方にはフに落ちないところが出てくるのである。
 言うまでもなく彼は一介の野人から秀吉に取りたてられ、歴史の舞台に登場する。つまり秀吉がいなければ名を残すこともなかったのである。
 秀吉没後、彼は家康に就いた。そして関ヶ原を経て大大名になる。しかしながら秀吉の遺児秀頼も立ててゆく。そして死後(暗殺説もあるが)夏の陣で豊臣氏は滅びるのである。また加藤家も秀忠により2代で取りつぶされるのである。清正ほどの人物がそれを見抜くことが出来なかったのだろうか?出来ないとすれば、彼も猛々しいだけの武将だったのである。また、家康側につくときも自己保全のための自己弁護のような理由が感じられる。豊臣贔屓の私にはかれの煮え切らない態度に不満を感じる限りである。
 それでは、豊臣家を本当に心配していたのは誰であろうか。言うまでもなく石田三成である。彼は非常に頭脳優秀、武断派の武将には見られない、官僚であり政治家だあった。ただ、何処の世界にもありがちな、事務派と現場派の感覚の相違により、武断派から意味もなく短絡的に嫌われるのである。武断派の先の見えない感情的な短絡さに関ヶ原で敗将になった。豊臣方の武将で家康の心を読んでいた数少ない武将であり、純粋に豊臣家のことを考えていた将である。
 また、このところ片桐且元の評価も変わってきた。彼は家康と比べ数段劣る人物である。しかし、豊臣家を残すため最後まで努力を惜しまない正直な人物であった。ただ、家康とやりあうには能力的には無理であった。そのため淀君に冷たくあしらわれ、やむなく豊臣家を去る、かわいそうな部将である。ちなみに、山岡荘八の徳川家康は、その後食を断ち自殺するようになっている。
 ついでに、福島正則。彼は全く単純な酒飲み武将である。酒の勢いで大事な家老を死なせたこともある。家康からしてみれば、「簡単に騙せる相手」であった。豊臣家滅びた後広島の城主になったのだが、簡単に改易。ただ家康の手玉に取られただけのような武将である。
 いずれにしても家康のしたたかさ、狸と言われる人物には三成以外はとうてい歯が立たない相手であった。
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