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今日は4月1日である。世間ではエイプリールフールとしているが、昭和20年のこの日は沖縄に米軍が上陸した日である。沖縄の人にとっては忘れられない日となる。
 沖縄戦といえば、以下203年12月に塾報「カルチェ・ラタン」に発表した文を記載する。9年前に書いた文である。

  八原博道の戦法
 八原博道という人を御存知だろうか?ちょっとした戦争マニアならしっているだろうが・・・・。彼は、太平洋戦争末期、米軍との沖縄戦における高級参謀である。一般に沖縄戦といえば守備隊司令官牛島満中将と参謀長勇中将が有名であり八原博道高級参謀は歴史の陰になったいる。牛島・長両中将が玉砕時に割腹自殺、八原は民間人を装い内地に戻ろうとしたが捕虜になたため派手さを好む日本人には好感を持つことができなかったためである。しかし私は、子供のころ父と一緒に岡本喜八監督の「沖縄決選」を見て妙に気を引かれた人物である。日本の戦争映画史上これほどの映画はなく、今後もこれ以上のものは期待できないと思われる。ビデオ屋さんにあるので、もし興味があれば見てもらいたい。
 そのとき、私は二つの疑問を持った。八原博道は戦後どうなったか?決選直前に沖縄から姿を消した泉知事の行方はの二つであった。この疑問はフツフツと私の頭の中に長い間存在していたのである。しかし最近、稲垣武著「沖縄悲運の作戦」(光文社NF文庫)という文庫本を見つけこの疑問を解決することになった。
 後者の疑問から、泉知事は沖縄を去ったあとどういう経過があったかは分からないが高知県知事になる。要領のいいものはどこに行ってもいいもんである。これはこれから述べる話とはあまり関係がないのでこれ以後述べない。
 八原は昭和56年5月まで生存していた(78歳)。私が想像したとおり、世捨て人のように衣服の販売をしながら(それもうまくいかなかったが)質素な生活をした。生前、沖縄から何度も来県の話があったが、八原は「沖縄の人と死んだ戦友に合わせる顔がない。」と辞退する。歴史上の人物では大政奉還後の徳川慶喜に似、自分の立場をよく知った人物と言えよう。
 さて、沖縄戦における日本軍の作戦であるが、アメリカにすれば日本の評価と違い、正式の米軍戦史や米国の軍事史家も例外なく高い評価を与えている。沖縄戦,否、太平洋戦争における物量の差は米は日本の数十倍であり、とくに末期においては比べるのも愚かしいほどである。八原はアメリカ留学の経験もあり、ヨーロッパ思想に近い合理的精神を抱き、欧米諸国の工業力の強さを身をもって体験した当時の日本では数少ない一人である。前述で徳川慶喜の名を出したが、戦略家としては幕末長岡藩の河合継之介にも似ている。
 八原の戦略は物量に頼る米軍に対し持久戦という地味な作戦をとったことである。沖縄には無数の洞窟があり、モグラのように閉じこもり勝機があるときだけに局地戦で戦い、内地決選まで時間を稼ぎ、米軍の出血を多くし米における世論をも利用しようとしたものである。
 八原は決して勝つ戦とは考えていなかった。ただ負けない戦に徹しようと思ったのである。出来る限り長期間米軍を沖縄に釘付けさせることに徹する。
 昭和20年4月1日午前5時30分、米軍は砲撃を開始する。戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、砲戦117隻が、上陸予定地の渡具知海岸に、艦砲弾45000発、ロケット弾33000発、迫撃砲弾22500発の砲撃である。午前8時には上陸開始、同時に空母機138機が艦砲に替わり銃撃。75ミリ榴弾砲や重機関砲を乱射しながら水陸両用戦車がいく。日本軍の反撃はない。米軍は「エイプr-ルフールではないか?」と思い、それが「ワナではないか。」になり、不安と疑惑に変わる。
 戦略上、上陸を拒む戦い方は元来、水際作戦が常識である。浜辺いう足場の悪い場所の敵を釘づけにし、自軍は何日も前からトーチカ等を作りそこから反撃するのである。しかしそれは上陸軍と対等かそれ以上の物量があるという前提である。
 その間、八原は狂喜する。これだけの艦砲を受けながら自軍の犠牲はほとんどなかったのである。八原は確信する。「あくまで戦略持久の堅持を。」
 しかし、総攻撃、だめなら華々しく玉砕を!と叫ぶ長参謀長に押し切られ、4月12日夜襲を決行する。ちなみに夜襲は日本軍得意の戦法であり劣勢時には特に行われた戦法であるがこのころ米軍には研究つくされ、会場でレーダー、陸上では集音マイクを使い完全によまれていた。八原はこの攻撃は必ず失敗すると確信。反対論を唱えるが決行。独立歩兵第23隊は全滅。いったいこのような積極論、精神論が持ち出されることが多く、残念な結果になることが戦時には多々あった。その後、攻撃のチャンスがやってきとときその夜襲で消耗したtめ武器、弾薬、兵力の不足には八原は地団太を踏んだという。
 ちなみに4月19日すぎまでにおける両軍の損害は、日本軍の死者2279名(戦史1174名、負傷1105名)に対し米軍2600名(先死475名、負傷2109名)と米軍のほうが多い。日本軍に戦死者が多いのは、敵砲火のため、負
傷者を後送できないため、助かる者も治療できなかったためであろう。
 沖縄戦は米軍の4月1日の上陸から日本軍の組織的戦闘終了まで82日間続く。それは八原の作戦した粘り強い地上戦闘に他ならない。米軍はおよそ一カ月で終了すると考えていた。米軍はそれまでの日本軍の戦い方を知りつくしていた。しかし八原の頭脳までは知りつくしていなかったのである。しかし末期には無意味な万歳突撃(火薬箱を抱き戦車に突入自爆。38式歩兵銃と日本刀で敵の重機関銃のなかに切り込むなど)集団自殺が行われたことも事実である。合理主義者の八原には耐えられないことであった。
 かくして沖縄戦は終わった。守備軍役65000人、住民10万人の犠牲。米軍は7613人が戦死又行方不明、31807人の負傷。あまりにも激烈な戦闘のため、精神神経症が26210人。6月20日のことである。その後8月15日に終戦となる。
 戦争が終わり、八原は生き残った。しかし、歴史上かr姿を消す。その後は前述のとおりである。

  
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こんにちは^^
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takumi|2012/04/02(Mon)|Edit
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takumi|2012/04/02(Mon)|Edit
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