腕が痛くて、知人に勧められた整形外科に行ってきた。待合室に同級生の女性(あえて女の子とは表現せず)が偶然にいた。面倒だったから言葉も交わさなかったのだが(それほど親しくもなく)、その子は(?)驚くほど歳を重ねているように見えた。どう見ても他の同級生よりも年齢が上に見えたのである。(同窓会に行ってもなぜか皆若々しいのだが、彼女は違うクラス)
家に帰り、この前の連休の写真が出来たというので、孫と遊ぶ自分の姿。文句のつけようがないほどの年寄りの自分であった。歳は皆平等に取っていくことを実感した日であった。
もっとも、腕に痛さも歳のせいか?
家に帰り、この前の連休の写真が出来たというので、孫と遊ぶ自分の姿。文句のつけようがないほどの年寄りの自分であった。歳は皆平等に取っていくことを実感した日であった。
もっとも、腕に痛さも歳のせいか?
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女子高生が「殺してくれ」と男子高生に言い、その結果、死に至らしめたという事件があった。嘱託殺人になるのではという見解もある。
思春期にはなぜか「死」にたいする憧憬、美学を追及したくなる時がある。迫りくる不確定の未来、成長していくことの醜さ、それは逃避的な死ではなく、発展的な死なのかもしれない。少なからずも私には今だ残っていることも事実である。
それは文学・芸術を極めれば現れる葛藤かもしれない。死の世界は知るべくもなく、現世よりも良いのか、悪いのかも判断できない。しかし、これだけは確実である。死ぬということは自分の周りの人たちは苦しみ、悲しむという現実があるということを知ってほしい。
思春期にはなぜか「死」にたいする憧憬、美学を追及したくなる時がある。迫りくる不確定の未来、成長していくことの醜さ、それは逃避的な死ではなく、発展的な死なのかもしれない。少なからずも私には今だ残っていることも事実である。
それは文学・芸術を極めれば現れる葛藤かもしれない。死の世界は知るべくもなく、現世よりも良いのか、悪いのかも判断できない。しかし、これだけは確実である。死ぬということは自分の周りの人たちは苦しみ、悲しむという現実があるということを知ってほしい。
所要にて名古屋まで行ってきた。久しぶりの名古屋である。名鉄電車にて名駅に到着。本当に久しぶりと思いながら歩くが依然と随分風景が変わっている。しばしば利用したラーメン店も他の店になってしまっていた。名駅のラーメン店はどこも行列。テーブルの狭く、ちょっと引く。結局家にかえりインスタントのうどんを食べる。
やはり、都会はなじめない、田舎の年寄りであることを実感した日であった。
やはり、都会はなじめない、田舎の年寄りであることを実感した日であった。
安保法案が可決された。賛否両論あり、いいとか、悪いとかは決められれない複雑な気持ちである。ただ、一般の人たちは「人を殺したくない、人に殺されたくない」という純粋な気持ちを表現しているのである。それに対し「不勉強だ」避難を浴びせることはやはりマズイのではなかろうか。もし戦いになれば、犠牲となるのは一般の人たちなのである。太平洋戦争でも南方の(これも戦時用語だが)の名も知らない小さな島嶼で病気・餓えにて亡くなった人は、きっと頭の中では「なぜここで死ななければならないのか?」を自問していたに違いない。
降りかかる火の粉を払うのは致し方なしのなのだが・・・・。
明治維新以後、日本は世界の列強になろうと努力し事実なってきた。ここらで世界の舞台から降りることはできないのだろうか?南米コスタリカのように。
極東の平和な目立たない小さな島国でありたい。
降りかかる火の粉を払うのは致し方なしのなのだが・・・・。
明治維新以後、日本は世界の列強になろうと努力し事実なってきた。ここらで世界の舞台から降りることはできないのだろうか?南米コスタリカのように。
極東の平和な目立たない小さな島国でありたい。
このところ雨の日が多く、昨日は台風となる。そして今日は台風一過の晴天。窓を開け掃除をしていると久しぶりに蝉の声が聞こえる。
過ぎ夏に最後の声を絞り鳴くツクツクホウシ。その声は健気にも悲しい。夏の終わりを告げる声である。もう秋である。
過ぎ夏に最後の声を絞り鳴くツクツクホウシ。その声は健気にも悲しい。夏の終わりを告げる声である。もう秋である。
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